誠が待ち合わせの松井田妙義インターに着いたのは夜が白々と開け始めた午前五時過ぎ。朝靄で少し霞んだインター出口を出て道路の脇に停車した。エンジンを切り舞の到着を待つ。
誠は長野道の更埴ジャンクションから上信越自動車道に入った辺りで舞に最後の連絡をしていた。
「そこからだと後一時間くらいね」
と舞は言っていたが、それほどの時間は掛からなかった。
誠は車から出て舞を待った。軽井沢に近いそこは、真夏にも関わらず朝は冷んやりとしていた。緑に囲まれているので空気も澄んでいる。
誠はビートのボンネットにかるく腰を掛け舞がやって来るであろう方向を見ていた。すると、誠のすぐ近くの草むらから白とグレーが混ざった毛色の兎が出てきた。誠に気づいていないのか人慣れしているのか、兎は誠に背を向け誠と同じ方向を見てじっとしている。
「お前も舞を待っているのか?」
「舞はもうすぐ来るかな?」
兎は舞を待つ間の良い連れになった。
遠くから車の音が聞こえてきた。兎は草むらに向き直り、そそっと逃げた。
近づいてくる車の排気音は大衆車の物ではない。清閑に響く重低音はスポーツマフラーから吹き出している事が判る。やがて誠の見ている道の先のカーブを曲がって黒色のクーペが現れた。舞だ。舞は誠が立っている手前で一度車を停めて誠に向かって小さく手を振った。車を料金所前のスペースでUターンさせて誠の車の後ろに停める。車から降りた舞は空色のデニムのスカートに白のブラウスを着ていた。胸の膨らみが相当に目立つ。化粧はしていないように見えた。
「ごめんなさい。待たせちゃった」
舞の笑顔といつもの甘えた様な声。
「やっと会えたね」
誠の正直な気持ちだ。ただ、舞に会えた喜びと、この先自分がどうなってしまうのかという不安で、どこかぎこちなかった。
「誠さん、まだ時間は大丈夫なんでしょ?」
舞は誠に尋ねた。
「うん、正午までに出発すれば大丈夫かな」
誠は帰宅する時間から逆算して答えた。流石に舞を前にして「それじゃこれで帰る」とは言えないし、誠自身もなるべくギリギリの時間まで舞と過ごしたかった。
「それじゃ、誠さんの車をこの近くの駐車場に入れて舞の車で街を案内してあげる」
そうして二人はこの場を後にした。
三分程走ったところの駐車場に車を入れて、誠は舞の車の助手席に乗った。
舞は車を発進させてシフトレバーから手を離し、そのままセンターコンソールに腕を置いた。誠はその腕の横に自分の腕を置いて手を広げた。舞は誠の顔を見た。誠も舞を見ている。舞は少し微笑んで前を向きながら誠の手を握った。
舞の車は高崎駅近辺まで来た。駅前通りから一筋入った通りで車を停めて舞は助手席の窓の方を向いた。
「あのアーケードのある商店街の中に舞のお店があるの」
と、舞は自分が経営している輸入雑貨店の場所を教えた。
「良い場所にあるんだね」
誠は実際に歩いて行ってどんなお店なのかを見てみたくなったが、舞にはその気が無さそうだったので口には出さなかった。
「高崎で観光するなら、大きな観音様がある所くらいしか無いの。すぐ近くだからそこに行ってみる?」
そう誠に聞きながら、返事を待たずにもう車を走らせていた。
観音像のある慈眼院の駐車場に着いたのは六時を回った頃だった・・・
・・・二人は観音像の周りを歩いている。
誠は、この日に会う以前から舞に恋をしていた。その気持ちを伝えた事は無かったが、舞は十分にそれを感じ取っていた。実際には到底付き合う事など叶わない二人だが、今こうして歩いていると恋人同士にしか見えない。
だが誠の心は揺れている。「舞への思いにこのまま身を任せるのか」と。しかしその先には暗闇が渦巻いている。その暗闇とは、妻に対するうしろめたさや、自分の人格の崩壊や、 家庭までも壊してしまうかもしれないという不安が創り出す未来だ。今、恋人同士のようにして歩いているが、誠の胸の内は期待感と不安が入り混じり、歩み出す一歩が見つからないでいる。
『帰りたい』
胸の奥底から本音が侵食し始めた。
二人はもと来た坂道を下りて駐車場に着いた。駐車場には舞の車があるだけで他に車はない。
二人は車に乗った。
舞は小さな声で「よっこいしょ」と言いながら少し上半身を助手席の誠の方に向けた。自分が「よっこいしょ」と言った事が可笑しかったらしく照れて笑う。誠はそんな舞の仕草を見て少し顔がほころんだ。
誠はまたセンターコンソールの上に右腕を置いて手を広げた。舞もその手を握る。
「さてと、何処に行こっか」
少しフロントガラスに向き直って舞が言った。誠に聞いたわけではない、ただ自然と口から出た言葉のように聞こえた。時計を見るとまだ七時だ。
「少し眠くなってきたね」
舞が独り言のように続けて言った。確かに誠も昨夜から車を走らせて来てまだ一睡もしていないし、車の運転中も舞とメールを交わしていたので彼女も一晩中寝ていなかった。
「最近の話なんだけどね、友達の美樹ちゃんが夜にこの駐車場で彼氏と車のシートを倒して話しをしていたら、お巡りさんがコンコンと窓を叩いて職務質問をしてきたんだって」
と、舞は雑貨店を手伝っている友達の話をして笑う。
「あっ! そうだ! ここからだと近くに良いところがある」
突然思い出した様にそう言って舞は体を起こした。舞は同意を求めるように誠の顔を覗き込む。
誠には舞が何処に行こうとしているのか大凡の検討がついている。一瞬誠は暗闇の渦の淵に立っている様な不安に襲われた。しかし、そんな気持ちに囚われながらも舞の甘い誘惑から逃れる事が出来ない。
誠はゆっくり頷いた。
舞は車のイグニッションスイッチを回してエンジンを掛けた。繋いでいた手を離してシフトレバーをドライブポジションに入れて車を発進させる。そしてまた誠と手を繋ぎ直した。
誠はもう逃げだすことが出来なかった。