ある晴れた夏の日に 第一章「白衣大観音」

ある晴れた夏の日のこと、まだ人の訪れの少ない明け方の観光地をあの人と二人で歩いた

もう二十年以上昔の遠い記憶

あの年の七月の終わり
昇り始めた朝日が木々の間から差してきて広く緩やかな坂道の蒸気を揺らめかせている。坂を登って行くと静かな森の中から鳥達のさえずりが聞こえてきた。この小山の上には慈眼院というお寺がある。この石畳の坂道は駐車場とお寺を結ぶ参道になっていた。坂の登り口には参拝客相手の店が建ち並ぶが、この時間ではどの店も戸口を閉めている。
こんな朝早い時間でも時折りお参りを終えて下りてくる者もいた。今ちょうど坂の上から下りて来るのは、お寺の参道の脇で食堂を営んでいる女主人だ。歳は六十を過ぎた辺りで、仕事柄なのか愛想の良さそうな顔つきをしている。毎朝のお参りは日課として欠かさない。
女が坂を下りる際に、寄り添いながら男女二人が坂道を登って来るのが見えた。女は二人が歩く反対端をうつむき加減に背を丸めて歩いた。二人の様子に興味を持って何か思うところがあるのか、口元には少し薄ら笑いを浮かべている。そして、すれ違いざまにチラッと二人の方を伺った。同じタイミングで二人連れも少し女の方に視線を向けたので目を合わす形となった。女は一瞬アッと薄ら笑いを強張らせたが、直ぐに愛想の良い笑みを浮かべ、軽く会釈をして足早に立ち去った。

「ねえ誠さん、今の人アタシ達のことを恋人同士だと思ったよね」

舞はそう言って組んでいる誠の腕を少し強く自分の胸に引き付けて誠の顔を上目遣いに覗き込んだ。舞の表情は明るく、誠の返事に期待感を持っている。誠は少し困惑した様な表情をしたが直ぐに「多分ね」と言って舞に笑みを見せた。
誠と舞は恋人ではなかった。まだ二人はお互いの本当の名前を知らない、知り合って数ヶ月のメル友という関係なのだ。二人が会うのはこの日が初めてだった。誠にとって舞という名が本名であっても偽名であってもどちらでも良い事であった。名前はただの呼び名に過ぎず、舞が「舞」と呼んで欲しいと言えば、そう呼ぶのが自分でも一番自然だと誠は思っている。あれこれ詮索するのもされるのも、誠は嫌いな性格なのだ。
二人は坂道の半分ほどを登って来た。少し左にカーブをしている緩やかな坂道は、頂上に近づくにつれて少しずつ勾配がきつくなっているように見える。それでも歩いて登る分には汗をかくほどの運動量ではない。二人は会話を弾ませながら少しずつ頂上に近づく。

「ねぇ、もう疲れたぁ」

頂上間近まで歩いて来たが、舞は歩くペースを落として誠の腕を引っ張る様な仕草をした。

「えー。すぐそこが頂上だよ」

誠は呆れたように舞に向き直って声を掛けた。実際にあと十歩も歩けば坂道は終わるのだ。舞は振り向いた誠の顔を見てクスクスと笑った。然程疲れを見せない舞の笑顔に誠は思わず吹き出した。舞が甘えている事に気づいたのだ。  

「しょうがないなぁ、ほら」

誠は笑って舞の両手を右手に取って引っ張って歩いた。舞の悪戯っぽい甘えが誠には楽しかった。

「あは、楽ちん」

そう言った舞もとても楽し気だ。
坂を登り切ると、すぐ左が慈眼院の建物になっている。坂の右側には大きな観音像が見えた。二人は観音像に向かって歩いた。山の上から街を見守る様に建てられている観音像は近づいて見上げてみると目眩がするほどの高さがあった。

「大きいね」

誠は感心したように言う。

「この観音像の中には階段があって登れるのよ」

舞はそう言って階段の入り口を教えてくれたが、まだ時間が早く鍵が掛けられていた。二人は中に入るのを諦めてそのまま観音像の周りを手を繋いで歩いた。

「あのね、恋人同士が此処に来ると観音様がやきもちを妬いて別れさせるそうよ」

そう言って舞は悪戯っぽくクスッと笑う。その笑顔と舞の付けた香水の甘い香りで、繋いでいる手と胸が熱くなってくるのが誠にはわかった。

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第二章「兎」